Name:釜本 邦茂 (Kamamoto Kunishige)
DOB:1944.04.15 ~
Nationality:Japan
World cup: No date
Number: 9 (National) 15 (Yanmar Diesel)
Position: CF ST OH
Height: 179 cm
Weight: 79 kg
Foot: Right
□ Yanmar Diesel
□攻撃/守備/当た/スタ/スピ/加速/反応/敏捷/
82 / 28 / 82 / 74 / 77 / 78 / 88 / 78 /
□ド精/ド速/短パ/短速/長パ/長速/蹴精/蹴力/蹴技/FK/曲が/
72 / 74 / 68 / 70 / 68 / 68 / 86 / 90 / 86 / 60 / 60 /
□頭精/跳躍/テク/積極/精神/プ安/GK/連携/コ安/逆精/逆頻/
84 / 80 / 75 / 90 / 74 / 6 / 50 / 78 / 6 / 7 / 7 /
*ポジショニング、ストライカー、ミドルシュート、ダイレクトプレー(飛び出し、ポストプレー)/A
メキシコ五輪で得点王に輝き、日本代表最多の75得点記録を持つことから
日本史上最高のストライカーと謳われている。
右足から繰り出される強力なシュートが最大の武器。特に右45度からのシュートは正確無比で、そのレベルは恩師のデットマール・クラマー曰く世界最高クラスであった。また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しく、後に釜本は、自らのシュートについて「5割は右足。左足が3割で、頭が2割」と語っている。即ち、あらゆる形からゴールを奪う事が出来る万能型フォワードであった。右足のシュートは若い頃、プレースタイルに惚れ込んでいた往年のポルトガルの名ストライカーエウゼビオのフィルム映像を幾度も見て研究、分析。映像からシュートに至るまでの一連の動作が自身の動きより1つ少ない事に気づき、シュートフォームを体得する。他にもエウゼビオがゴール後のパフォーマンスで走りながら大股で跳躍して、握った拳を腰から胸に突き上げる動作をしているが、現役当時の釜本もゴール後にエウゼビオを同じゴールパフォーマンスを行っているのが確認出来る。対戦相手は釜本の突破と右足からの強烈なシュートを警戒し、それを阻止する事に神経を集中させる。そこで左足のシュートが威力を発揮した。1974年の日本リーグ通算100得点目は左足のトゥキック、1981年11月1日の通算200得点目も左足シュートであった。 また当初は得点能力には秀でたものの、ディフェンスを背負った状態でボールをキープし、そこから反転してシュートへ持ち込む一連の動作に不安が残っていた。この弱点は日本代表コーチのクラマーや、西ドイツ留学当時の恩師、ユップ・デアヴァルといった優れた指導者の下で改善し、「(ペナルティエリア内でディフェンス3人がかりの)マークを受けていても自分にパスを出すべきだ」、「敵が来たら、体でブロックしてシュートを打てばいい」と語るほどディフェンスをかわす動きに自信を付けていった。普段から口すっぱく「フォワードは点を取ってナンボ」と言っており、現役時代はそれを信念に掲げ試合に臨んでいた。日本代表がシュートを打たない試合では不満を漏らし「パスしたって意味がないんや、シュートをしろシュートを」と、現役さながらの持論で叱咤する。
引退するきっかけは、自宅において椅子から立ち上がる際テーブルに体を痛打、この時「もう(日常の簡単な動作さえ出来ないのなら)選手は仕舞いやな」と言い、引退を決めたという。
He was born in Kyoto on April 15, 1944. He grew up in Kyoto and attended Yamashiro High School. Then, he was on to Waseda University School of commerce. His major was commerce and earned bachelor of arts degree from Waseda University in 1966. He was selected Japan national football team in his college year. He joined the 1964 Summer Olympics in Tokyo, Tokyo and the 1968 Summer Olympics in Mexico city, Mexico. Kamamoto was the first Japanese league superstar, being the Japan Soccer League's top scorer 6 times with his club Yanmar Diesel, the forerunner to today's Cerezo Osaka. Upon retirement he became a manager and went across town to the local rivals, Gamba Osaka. Later, he became a member of the House of Councilors. Kamamoto has been a politician since 1995 and the vice chairman of the Japan Football Association since July 1998