Name:宮本恒靖 (Miyamoto tsuneyasu)
DOB:1977.02.07 ~
Nationality:Japan
World cup: 2002. 2006
Number: 5 (National) (Gamba Osaka) 17 (Red Bull Salzburg) 14 (Vissel Kobe)
Position: CB SW SB DH
Height: 176 cm
Weight: 72 kg
Foot: Right
□ Gamba Osaka → Red Bull Salzburg → Vissel Kobe
□攻撃/守備/当た/スタ/スピ/加速/反応/敏捷/
58 / 79 / 73 / 80 / 76 / 72 / 83 / 75 /
□ド精/ド速/短パ/短速/長パ/長速/蹴精/蹴力/蹴技/FK/曲が/
69 / 71 / 72 / 71 / 76 / 75 / 63 / 72 / 60 / 61 / 60 /
□頭精/跳躍/テク/積極/精神/プ安/GK/連携/コ安/逆精/逆頻/
77 / 79 / 72 / 58 / 82 / 4 / 50 / 78 / 5 / 6 / 6 /
*カバーリング、DFライン統率
2002年 2006年のワールドカップに出場し、長年において日本代表を牽引し続けてきた
「ツネ様」の愛称で親しまれる元日本代表キャプテン、現在FIFA Master大学院に在学。
10才からサッカーをはじめ、大阪府立生野高校時代にガンバ大阪ユースに所属。ユースチーム卒業まで3年間キャプテンを務めた。1995年6月24日にガンバ大阪のトップチームにクラブでは初めて昇格。プロ契約後は中々出場機会に恵まれなかった。1997年から出場機会を掴み始め、2000年にはキャプテンを務めるまでになる。2001年1月にイングランド・プレミアリーグのウェストハム・ユナイテッドFCへの移籍が噂されたが、労働ビザが発給されずに断念。2002年に就任した西野朗監督の下センターバックで起用され、山口智・シジクレイと3バックを形成。2005年にはJリーグ優勝を果たし、ガンバ大阪の黄金時代を築いた。2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに移籍。9試合に出場しリーグ優勝に貢献した。チームでは左サイドバックで出場することもあった。1年間の契約だったが、2007年12月に1年半の契約延長に合意。2008年には左太腿裏の腱断裂の怪我で戦線離脱。監督が変わったこともあり出場機会は激減した。宮本本人は移籍を志願し、クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届くも、2009年1月15日にJリーグのヴィッセル神戸へ完全移籍した。神戸入団後に主将に就任。同年7月18日のJ1リーグ第18節川崎戦では自身初となるバイシクルシュートを決め、これが宮本のプロ選手生活で最後の公式戦ゴールとなった。2011年のシーズン終了後、宮本は神戸側から出されていた契約延長の申し出を固辞し、12月19日に現役引退を表明した。引退後は国際サッカー連盟の経営する大学院「FIFAマスター」にて指導者講習を受け、欧州での活動を見越しコーチングライセンス取得を目指している。
片道2時間はかかるサッカー場へ行く際に電車の中で勉強していたというほど勉強熱心で、成績は学年随一だった。宮本家は全員が高学歴のエリートであり、当初プロ入りを考えていた宮本に家族は反対していたという。同志社大学経済学部に進学し、2001年に卒業。語学に堪能であり、英語、フランス語も簡単な会話が可能。中学校3年生の時点で大阪府英語弁論大会で優勝するほどの語学力を持っていた、2004年のアジアカップ準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、審判に「ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申しつけ、これを変更させた。試合後の宮本は「俊輔とアレックスが外していたので、流れを変えたかった。(通訳には)英語で話したが、通じて良かった」と語った。解説者としてテレビに出演する場面も多く、WOWOWの生番組『UEFA EURO 2012(TM) ウィークリーハイライト』では、現日本代表キャプテンである長谷部誠との夢の競演を果たした。
Tsuneyasu Miyamoto is a retired Japanese footballer who was active from 1995 until 2011. A central defender, Miyamoto went on to make 71 international appearances and led the Japan national team in the 2002 and 2006 World Cups as well as the 2004 Asian Cup. Miyamoto also captained Gamba Osaka during their 2005 J. League championship season
He played in the 1997 FIFA World Youth Championship and 2000 Olympic football tournament. As a centre back, he served as captain for Japan in the 2002 World Cup, after an injury to Ryuzo Morioka, who had begun the tournament as captain. He then continued to captain his country through the 2004 AFC Asian Cup and the 2006 FIFA World Cup. "Tsune" played the first two group matches of the cup, but was suspended for the third and last match against Brazil after he received yellow cards against Australia and Croatia. Yuji Nakazawa wore the armband in his place.