Name:中田英寿 (Nakata Hidetoshi)
DOB:1977.01.22 ~
Nationality:Japan
World cup:1998. 2002. 2006
Number: 7 (National) 16 (Bolton Wanderers)
Position: OH CH DH
Height: 175 cm
Weight: 72 kg
Foot: Right
□ Bellmare Hiratsuka → Pergia → AS Roma → Parma → Bologna→ Fiorentina → Bolton Wanderers
□攻撃/守備/当た/スタ/スピ/加速/反応/敏捷/
76 / 60 / 82 / 84 / 75 / 77 / 75 / 74 /
□ド精/ド速/短パ/短速/長パ/長速/蹴精/蹴力/蹴技/FK/曲が/
78 / 72 / 83 / 86 / 82 / 80 / 70 / 82 / 67 / 77 / 74 /
□頭精/跳躍/テク/積極/精神/プ安/GK/連携/コ安/逆精/逆頻/
72 / 72 / 82 / 77 / 84 / 5 / 50 / 77 / 4 / 6 / 6 /
*ドリブルキープ、司令塔、センタープレイヤー、アウトサイド/A-B
全盛期のセリエAで活躍し、海外組の先駆者であった日本サッカー界のパイオニア。
日本を初のワールドカップへ導き、日本人初のセリエA優勝を経験するなど、その実績は未だ色あせない。
小学3年生の時に漫画、キャプテン翼の影響で(友達に誘われたとの説も有り)サッカーを始め、。韮崎高校2年時には第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場した。卒業時にはJリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち11クラブからオファーを受け、1995年にベルマーレ平塚に入団。翌年トップ下としてのレギュラーの地位を確保した。1997年に韓国との親善試合でA代表デビュー。W杯アジア最終予選で苦しむ日本をW杯初出場へと導く原動力となった。アジア第3代表決定戦となったプレーオフ・イラン戦では、岡野のゴールデンゴール決勝点を含む3アシストを遂げ、日本を初のワールドカップに導く立役者となった。日本の初出場となった1998年フランスW杯ではトップ下としてグループリーグ全3試合にフル出場。中田のプレーは海外のクラブに認められ、アーセナル、ユヴェントス、マルセイユなどが獲得に名乗りを上げるも、同年7月、21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ完全移籍した。1998-1999シーズン開幕戦でユヴェントスを相手に2ゴールを上げてセンセーショナルなデビューを飾り、同シーズン10得点を上げた。1999-2000シーズン途中に約19億円で名門ASローマへ移籍。ローマにはセリエ屈指のスター選手でありフランチェスコ・トッティに加え、ザネッティ、トンマージ、カフーといったそうそうたるメンバーが名を連ね、アジア人の欧州強豪チームへの移籍は日本国外でも話題となった。移籍3日後にはすぐさま起用され、ボランチやトップ下など半年ながらレギュラーとして出場した。しかし翌年2000-2001シーズンから雲行きが怪しくなり、トッティの代役としての出場が躊躇になっていった。しかしリーグ優勝に大きく関わる第29節のユベントス戦で、不調だったトッティと代わり後半途中出場し、タッキナルディの後ろからボールを奪い豪快なミドルシュートを決めた。その後も中田のミドルシュートからのこぼれ玉をモンテッラが押し込み、2-2の引き分け、貴重な勝ち点獲得の立役者となった。この勝ち点が影響し、ローマは2位ユベントスと勝ち点差わずか1で、日本人として初めてセリエA優勝を果たした。シーズン後のチーム採点でも高い評価を得た中田だが、出場試合の乏しかった事実は不満が有り、他チームへの移籍を申し出た。当時ローマ監督のファビオ・カペッロ氏はトッティの代役は中田じゃないと務まらないと高い評価をしていたが、結果トッティとのポジション争いには勝てなかった。2001年にはパルマに移籍し、アドリアーノやムトゥらとチームの押し上げに奮闘。その後ボローニャ、フィオレンティーナと活躍の場を移し、2006年のドイツワールドカップを最後に、29歳で現役引退した。
現在でも日本史上最高の選手として謳われており、その背景には8年の海外実績と全盛期のセリエで活躍したことが理由にあげられる。代表でもワールドカップ3大会で全10試合に出場したのは彼だけであり、いかに日本代表にとって重要な選手だったかが伺える。しかしチーム内では中田が孤立していると噂され、メディアの扱い方も「中田孤立」という偏重的な報道が目立った。このわだかまりは2006年のワールドカップに影響することになり、当時歴代最強チームと言われていた日本代表は2敗1分のふがいない成績で終わり。中田はブラジル戦の終了後、センターサークルにうなだれて涙を流した。引退後はメディアに露出するようになり、自身のビジネスに上手く利用している様が見受けられる。2010FIFAワールドカップ直前には本田圭佑と対談し、新旧司令塔の夢の競演を果たした。その時に中田は日本代表の課題に「メンタル面」を上げている。現在は一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」を立ち上げ、代表理事に就任し、モデルやデザイン、番組制作など枠に捕らわれない様々なビジネス活動をしている。
2006FIFA World Cup.